39.伊能忠敬記念館 常設展示の解説
1月5日は、伊能忠敬記念館に行ってきました。そしてそこで、展示解説員の
方の常設展示の解説を聞きました。

伊能忠敬は、天明の大飢饉や浅間山の大噴火の時に名主と共に米を出して
人々を救い、感謝されました。また伊能忠敬は、たくさんの本を読んでおり、
特に天文の本を多く読んでいました。伊能忠敬は、伊勢神宮参拝の旅に
行った時に緯度方位方角を調べています。

化政文化のコーナーでは、杉田玄白、平賀源内、山東京伝、本居宣長、
林子平について書かれていました。当時の宝暦暦は、日食の予言を外すなど
役に立たなかった。そこで寛政暦に改暦されました。

●近世前期の天文学統●
     ┌京都派-土御門家
官僚派┤
     └江戸派-幕府天文方と属僚、渋川春海

     ┌旧長崎派-南蛮学統(天文学派、航海学派)
市民派┼新長崎派-オランダ通詞天文家、志筑忠雄
     └その他  -麻田剛士

●高橋至時の師弟の系統●
麻田剛士┬高橋至時┬高橋景時
      └間重富  ├渋川景佑
              └伊能忠敬

伊能忠敬は、1800年の皆既日食を記録していました。伊能忠敬の測量は、
第1~4次の測量では、5、6人が同行し、北海道蝦夷地南部と江戸から
東北あたりを測量しました。また、子午線1度を測っていました。
伊能忠敬は、「28.2里(28.204m)」と求め、ラランデ測量では、
「28.206m」とその差はわずかに0.2%と、驚くほど正確なものでした。

伊能忠敬は、「大日本沿海輿地全図」を江戸幕府の将軍、徳川家斉に献上
したことが幕府の公式の記録として残っています。

第5~10次の測量では、人が増え、藩からも10~20人くらい人を出して
もらえました。また、出さない藩もありました。特に西日本を細かく測定し、
山からとある地点を測って方位が正しいことを調べました。

伊能忠敬が使用した計測器として、「梵天(ぼんてん)」、「鉄鎖(てっさ)」、
「象限儀」についての解説がありました。鉄鎖は、第3次測量から使用され、
それまでは歩測で、歩いて計測をしていました。

北海道は、間宮林蔵が計測し、データを伊能忠敬が亡くなる前に渡してします。
そして、地図は、伊能忠敬の死後、弟子たちによって完成しています。

伊能忠敬は、死の直前、「私がここまでくることができたのは高橋至時先生の
おかげであるから、死んだあとは先生のそばで眠りたい」と語った。そのため、
伊能忠敬の墓は、高橋至時・景保父子と同じく上野源空寺の先生の隣に
あります。

伊能忠敬記念館は、おととしも行ってきたのですが、展示解説員の解説も
聞けて前回では分からなかったことも色々と分かってきて、より伊能忠敬の
ことを深めることができて良かったです。本当に大変な測量の旅をしてきたの
だなと思いましたし、その測量にかける情熱も素晴らしいと思いました。


伊能忠敬記念館
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伊能図の再生~国宝保存修理事業のあゆみ~
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write:2025/07/17 rewrite:- update:2025/09/28


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