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| 40.千々石ミゲルについての最新研究 | ||
| 当時まだ10代前半の少年だった伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・ 原マルチノ・中浦ジュリアン(カタカナはいずれも洗礼名)の4名は 天正10年(1582年)、ローマ教皇に謁見するためヨーロッパへ派遣された。 彼らは異国の地で歓待され、天正18年(1590年)に帰国したものの、 江戸時代のキリシタン弾圧によって不遇な生涯を送ることになる。 キリスト教の布教に努めて慶長17年(1612年)に長崎で病死したマンショは まだしも、マルチノは2年後にマカオへ追放され、現地で死去。ジュリアンは 幕府のキリシタン弾圧が厳しくなった寛永9年(1632年)に小倉で捕らえられ、 翌年、長崎で4日間穴つりの刑に処せられながら棄教を拒み、殉教した。 最後の一人、ミゲルだけが『伴天連(バテレン)記』の記述から、唯一、 棄教した人物とされてきた。しかも彼は同じ頃、後にキリスト教を禁じる 大村藩へ仕えたと考えられており、信仰より出世を選んだ裏切り者という レッテルを貼られてきた。また、その晩年の消息が掴めず、4人の中で最も 謎多き人物となっている。しかし、有志によって結成された「千々石ミゲル 墓所調査プロジェクト」の調査で棄教の疑いが晴れ、晩年の行動も次第に 明らかになりつつある。 ミゲルは九州のキリシタン大名・大村純忠の甥(おい)で、同じく有馬晴信の いとこにあたる。帰国後、豊臣秀吉に謁見し、イエズス会(カトリックの 布教団体)に入信。しかし、慶長5~8(1600~1603)年の間にイエズス会を 脱会するのだ。 その理由は『伴天連記』によると、「伴天連を少うらむる子細ありて」。 キリスト教を少し恨む子細の内容は不明ながら、イエズス会のほかに日本に 進出していた修道会(フランシスコ会など)との抗争のほか、カトリック教国 であるスペインによる日本征服の野望が明らかになったことなどが 関係しているのだろう。 つまり、キリスト教そのものに疑問を抱いたわけではなく、イエズス会を 脱会しただけで棄教はしていなかったと、今では理解されるようになった。 「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」は、その晩年についても、 慶長11年(1606年)に大村藩がキリスト教を禁じた後、旧有馬領の 日野江(島原)藩へ移り、日野江藩も禁止すると、当時、日本のローマと いわれた長崎へ移ったとしている。 彼が棄教していなかった事実は、同プロジェクトが彼のものだと特定した墓所 の出土品からも裏づけされる。そもそも墓所のある伊木力村(長崎県諫早市) は潜伏キリシタンが多いことで知られ、出土品はキリシタン聖具に 使用されていたガラス玉やガラス片。 その墓碑によると、ミゲルは寛永9年(1633年)に亡くなったとある。 千々石ミゲルについては、「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」の日記を 書きましたが、棄教の疑いがありましたが、墓所の調査で棄教していなかった ことが判明したのですね。棄教していなかったのは良かったです。そして、 このような誤解が解けたのは本当に嬉しい限りです。 【千々石ミゲル】“唯一棄教した少年使節本当に裏切り者なのか?” 歴史研究家・跡部蛮の歴史偉人(裏)素顔 こちら | ||
| write:2025/07/26 | rewrite:- | update:2025/09/28 |