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| 35.教皇が生きづらかった時代、暗黒期(鉄世紀[Saeculum obscurum]) (改訂版) |
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今回は、ローマ教皇史における「暗黒期(鉄世紀)」について書こうと 思います。前回も書きましたが、色々と抜け落ちていた所がありましたので その改訂版です。 「鉄世紀」ですが、枢機卿バロニウスがその著書「教会年代記 (Annales ecclesiastic)」において「教皇権鉄の時代」と呼びなしたことに よるもので、「鉄世紀」とか「鉄の時代」(Saeculum obscurum)とも 呼ばれます。 この時期は、ローマではクレスケンティウス、テオフィラクトゥスといった 有力貴族がその政治的野望を達成するために、あるいはそれを妨害せんとする 教皇に報復するために、教皇を勝手気ままに選出、廃位、殺害していた 時期で、「鉄世紀」は、主に904〜964年頃とされ、「ローマ教皇事典」 では、教皇殺害が頻繁に行われたのは867~964年あたりと書かれておりました。 その間に殺害された、殺害されたと思われる教皇は12人に上ります。 そんな「暗黒期」、特に「鉄世紀」を象徴する出来事として以下を挙げます。 ・死体裁判(897年) ・教皇セルギウス3世の即位(903年) ・教皇ヨハネス11世(マロツィアの息子)の即位(931年) ・教皇ステファヌス8世(9世)の殺害(942年) ・教皇ヨハネス12世の即位(955年) ・対立教皇ボニファティウス7世の登場(974年) ・教皇ベネディクトゥス9世の乱世(1032~1048年) ・スートリ公会議(1046年) ・教皇レオ9世による改革の開始(1049年~) ●死体裁判● イタリア中部スポレトのグイード3世は、ステファヌス5世(6世)に 強いて自分を皇帝に戴冠させたが、892年には次の教皇フォルモススに 息子ランベルトを副皇帝に戴冠させるよう迫りました。そこでフォルモススは 東フランク王のアルヌルフに助けを求めますが、アルヌルフが脳溢血のため 達成できず、フォルモススも894年4月に死去します。 そして、次の次の教皇ステファヌス6世(7世)は、ランベルトの傀儡で ランベルトはこの教皇を利用して、897年フォルモススの遺体を掘り起こして、 教皇の衣服を着せて裁判を行う「死体裁判」を行いました。 フォルモススは有罪とされ、死体の手足を切断した時にイタリアに地震が 起こり、これこそ神の怒りだと信じたローマ市民が暴動を起こして ステファヌス6世(7世)の廃位を要求しました。 スポレト派はステファヌス6世(7世)を廃位、絞殺しています。 フォルモススの遺体は、テヴェレ川に投げ込まれましたが、数日後、 一人の隠修士によってサンピエトロ大聖堂の墓所に埋葬されます。 ●娼婦政治の始まり、セルギウス3世● 教皇セルギウス3世は、897年末にテオドルス2世の死去後、反フォルモスス派 によって選出されますが、ヨハネス9世を推すグループとの対決に破れ、 フィレンツェに追放されます。ですが、904年に再び選出されました。 この時にセルギウス3世は、自分の教皇就任は904年ではなく897年だと主張、 したがってヨハネス9世、ベネディクトゥス4世、レオ5世の3人は 非合法教皇であり、彼らの叙任はすべて無効であると宣言しました。 この主張を押し通すために野心家の貴族のテオフィラクトゥス1世とその妻 テオドラを味方に引き入れました。この時にテオフィラクトゥス家に 牛耳られる教皇史上最悪の時代が幕開けます。 また、セルギウス3世は、テオドラの娘、15歳のマロツィアとの間に子を もうけたとされており(疑われてもいます)、その子が後のヨハネス11世と されています。そして、マロツィアには卑屈なまでに服従していました。 ●ポルノクラシー(娼婦政治、婦妾政治)、テオドラ、マロツィア● セルギウス3世の次は、アナスタシウス3世、ランドが教皇に就任しますが、 テオフィラクトゥス家に支配されていたことは想像に難くありません。 その次にヨハネス10世が教皇に就任しますが、テオフィラクトゥス家、 特に一族の女家長」的存在だったテオドラ(916年没)の意向を反映したもの でした。 ヨハネス10世は、サラセン人の撃退、クリュニー修道院の祝福、 ラテラノの再建、ビザンツ帝国との関係の改善などの功績を上げますが、 ローマとの関係が悪くなり、事実上のローマの支配者だったテオドラの娘の マロツィアの一存で928年に廃位され、投獄、殺害されてしまいます。 その次は、レオ6世、ステファヌス7世(8世)が教皇に就任しますが、 マロツィアの意向によるものでした。 そして次に、マロツィアの野望達成の道具だった、セルギウス3世と間に できたとされるマロツィアの息子のヨハネス11世が教皇に就任しました。 932年夏にマロツィアとのその義弟ヒューとの結婚の司式をしますが、 これは非合法結婚だとして、マロツィアの息子でヨハネス11世の父違いの 兄弟のアルベリック2世を中心に暴動が起こり、ヒューはローマから逃走 しますが、ヨハネス11世とマロツィアは捕らえられ、サンタンジェロ城に 投獄され、そのままで死亡しています。 その後、ヨハネス11世は釈放されて異父兄弟の厳しい監視と蔑みの目に されされつつ教皇職を務めました。 このようにセルギウス3世からヨハネス11世までの治世(904~935年)は、 テオフィラクトゥス家のテオドラ、マロツィアによって政治が牛耳られ、 その政治をポルノクラシー(娼婦政治、婦妾政治)と呼ばれています。 ●教皇ステファヌス8世(9世)の殺害● 教皇ステファヌス8世(9世)は、ローマを意のままに操っていた貴族の アルベリック2世によって教皇位につけられたが、942年10月に唐突に死去 しています。アルベリック2世の不興を買って廃位され、手足を切断されて 絞殺あるいは餓死されられたものと思われます。 ●ヨハネス12世の廃位● マロツィアの孫であり、アルベリック2世の私生児で、臨終の床で、 その私生児を次の教皇にするように誓わせ、教皇に就任しました。 それがヨハネス12世です。 ヨハネス12世は。ドイツ王オットー1世を神聖ローマ皇帝として戴冠し、 同盟を結びますが、963年、ヨハネス12世がイタリア王ベレンガリオの息子と 陰謀をめぐらしていることを知って激怒したオットー1世は、ヨハネス12世を 廃位し、レオ8世を教皇に立てました。 翌年、ヨハネス12世がレオ8世を追放し、一時教皇位に返り咲いたが、 その年のうちに27歳で脳卒中で亡くなってしまいます。 殺されたのではないかとも言われています。 ●対立教皇ボニファティウス7世の登場● 対立教皇ボニファティウス7世は、クレスケンティウス家の後ろ盾で教皇に なりましたが、皇帝派は、ベネディクトゥス6世を選びます。そこで クレスケンティウス家ベネディクトゥス6世を捕らえ、ボニファティウス7世 を聖別します。そしてベネディクトゥス6世を殺害します。 これに怒ったローマ市民は、ボニファティウス7世を追放しますが、 984年に復位し、時の教皇ヨハネス14世を殺害します。こうして1年ほど 教皇の座に居座りますが、985年に暗殺されたか暴徒に殺されたかで 亡くなっています。 ●教皇に3度就任したベネディクトゥス9世● 教皇ベネディクトゥス9世は、教皇に3度就任しますが、トゥスクルムの アルベリック伯の息子でトゥスクラーニ家出身の教皇ベネディクトゥス8世と ヨハネス19世の甥にあたり、父親であるアルベリクス3世のばらまいた賄賂で 1032年に教皇に就任します。 ベネディクトゥス9世は、それからの12年間、実家の武力を後ろ盾に放蕩三昧 の生活に明け暮れますが、1044年にローマ市民が立ち上がり、トゥスクラーニ家 の政敵クレスケンティ家と謀ってベネディクトゥス9世をローマから追放し、 シルウェステル3世を教皇座に就けます。 翌年の1045年にはベネディクトゥス9世がシルウェステル3世を廃位、教皇座 に返り咲きますが、2か月後には代父のジョバンニ・グラツィアーノに教皇座 を賄賂で売り渡し、退位します。そしてジョバンニがグレゴリウス6世として 教皇に就任しますが、翌年には売り渡した教皇座が惜しくなり、ローマに 戻ったため、シルウェステル3世、グレゴリウス6世、ベネディクトゥス9世 の3人が教皇に並び立つという異常事態になりました。 1046年、事態の収拾のためにスートリで会議が開かれ、ドイツ王ハインリヒ3世 は3人の退位を決め、新たな教皇クレメンス2世を選出しました。 ところが、クレメンス2世は間もなく死亡し、1047年にベネディクトゥス9世 が3度目の就任をしますが、ハインリヒ3世の怒りはすさまじく、翌年の 1048年に退位させられ、ダマスス2世、続いてレオ9世が教皇に就任します。 その後も退位の事実を認めないベネディクトゥス9世は、ダマスス2世や レオ9世に対してトゥスクルムの城塞から罵詈雑言を浴びせかけていたと 言われていますが、教会伝承では、死に瀕したベネディクトゥス9世は、 あまりにもひどい生涯を悔い、改悛の秘跡を受けて亡くなったとされています。 ●その後のグレゴリウス改革● 教皇レオ9世は、ハインリヒ3世から教会改革の熱意を買われ、教皇に就任 しました。教会の独立と道徳的再生を強く意識し、ヒルデブランド(後の 教皇グレゴリウス7世)や聖ペトルス・ダミアヌスによって助けられて 精力的に教会改革を行った有能な教皇となりました。 こうしてレオ9世からグレゴリウス7世、ウルバヌス2世あたりまで改革が 行われ、その改革は「グレゴリウス改革」と呼ばれ、それによって、暗黒期、 鉄世紀というローマ教皇史上最も堕落し、腐敗した時代は終わりを告げます。 ●総括● 「暗黒期(鉄世紀)」ですが、このように廃位や殺害が多く行われて、まさに 教皇としては生きづらい時代だったと思います。それは、鉄世紀を含む暗黒期 からグレゴリウス改革前夜までに46人が教皇に就いたこと、教皇の在位期間の 平均は約3年9ヶ月25日ということからも明らかです。この時代の教皇は、 教皇職を後の世代につなげたことが最大の功績とも言われていますが、 まさにその通りだと思います。 後には、レオ9世から始まった「グレゴリウス改革」によって協会が刷新され、 インノケンティウス3世やボニファティウス8世が登場し、教皇権が全盛期を 迎えたり、アレクサンデル6世やユリウス2世といった強烈な個性を持った ルネサンス期の教皇が登場したりしますので、それもこの暗黒時代が あったからだと思います。 教皇史の血塗られた1ページですが、それをも 乗り越えて教皇職を強いものにし、今に繋がっているのだと思います。 |
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| write:2026/02/05 | rewrite:2026/02/08 | update:2026/02/08 |