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| 36.ルネサンス時代と教皇(改訂版) | ||
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今回は、ルネサンス時代と教皇について書こうと思います。前回も 書きましたが、色々と抜け落ちていた所がありましたのでその改訂版です。 ●序論● 皆様は、「ローマ教皇」というとどのようなイメージを思い浮かべられる でしょうか?カトリック教会の最高指導者というのが一番のイメージだと 思いますが、約250年前以前のローマ教皇は、それだけでなく、一国の君主、 一国の領主としての資質も必要でした。 当時は、そのバランスが大事なのですが、ルネサンス時代は、そのバランスが 崩れ、カトリック教会が世俗化し、深刻な腐敗と堕落を招いてしまいました。 今回は、9つのキーワードからルネサンス時代と教皇を見ていこうと思います。 ●文化的、芸術面での功績● 文化的、芸術面での功績は、ルネサンス人文主義の父とされるニコラウス5世は、 ヴァチカン図書館の創設、ローマの都市再建に貢献し、シクストゥス4世は、 システィーナ礼拝堂を建設し、ラテラーノ宮殿(旧教皇宮殿)に保管されていた 重要な古代ブロンズ彫刻群を、ローマ市民に寄贈しました。 これがカピトリーノ美術館の起源となります。 ヴァチカン図書館は、シクストゥス4世によって公開・拡大され、 ルネサンス美術の重要な拠点になりました。 ユリウス2世は、 新サンピエトロ大聖堂の建設計画を開始し、レオ10世は、 サンピエトロ大聖堂建設の加速させます。 ●芸術家のパトロン● この時期の歴代教皇は、芸術に力を入れており、アレクサンデル6世は、 ピントゥリッキョにボルジアの間を装飾させ、ユリウス2世は、 ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を描かせ、パウルス3世は、 ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の壁に最後の審判を描かせています。 あと、レオ10世は、ラファエロを重用しています。 ユリウス2世は、教皇に地上的権威を取り戻し、失った領地を取り戻すために 教皇軍の先頭に立って戦場を駆けまわっり、そのために好戦的な教皇を フィレンツェの歴史家グイッチアルディーニは、「衣服を名前を除けば聖職者 らしい所はなにもない」と評している「戦士教皇」でありながら、 史上最高レベルの芸術パトロンの一人でした。 ●メディチ家の芸術支援● メディチ家は、ルネサンス期フィレンツェで最大級の芸術パトロン(支援者) として知られ、銀行業で蓄えた莫大な富を文化・芸術に投じ、フィレンツェを ルネサンスの中心地に押し上げました。 特にコジモ・デ・メディチと孫のロレンツォ・デ・メディチの時代が黄金期で、 彼らの支援がなければ、今日のルネサンス美術の多くは存在しなかったと 言えます。 古代ギリシャ・ローマの古典を重視し、プラトン・アカデミー(人文主義者の サークル)を設立。哲学・文学・芸術の融合を促進し、絵画・彫刻だけでなく、 建築、図書館、学問、庭園(彫刻園)まで。後世の美術館の基盤も作り、 ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなど、 支援を受けた芸術家は、世代を超えて活躍し、フィレンツェの芸術が 世界遺産級に発展しました。 ●パッツィ家の陰謀● ロレンツォ・デ・メディチに対する暗殺未遂事件は、ルネサンス期の フィレンツェ史で最も劇的で有名な出来事の一つで、1478年4月26日 (イースターの日曜日)に起こりました。絶大な影響力を持っていたメディチ家 に反発したライバルのパッツィ家が中心となり、教皇シクストゥス4世と その甥のジロラモ・リアリオ、ピサの大司教フランチェスコ・サルヴィアーティ らが共謀し事件を起こしました。 ジュリアーノ・デ・メディチは刺殺され、ロレンツォは肩や首を負傷 しましたが、護衛や友人(特にフランチェスコ・ノーリが盾になった)の助けで サクリスティア(聖具室)に逃げ込み、難を逃れました。 結果、フィレンツェ市民はメディチ家を支持し、暴動が起き陰謀者側を激しく 攻撃。パッツィ家の人々や関係者は即座に捕らえられ、約80人が処刑されたと 言われます。ロレンツォは生き延びたことで権力をさらに強化。 以後「イル・マニーフィコ(壮麗なる)」の名を不動のものにし、 フィレンツェの黄金時代を維持しました。 ●ネポティズム(親族登用)● この当時は、親族登用がさかんに行われました。親族の方が信頼できると いうのがあるのでしょうが、自分の一族ばかりが利益を得ているということで 批判の的でもありました。 カリストゥス3世は、甥を枢機卿に、シクストゥス4世は6人の甥を枢機卿に、 アレクサンデル6世は、息子を枢機卿に、パウルス3世は、2人の孫を 枢機卿にしています。 さらに、カリストゥス3世の甥のアレクサンデル6世、ピウス2世の甥の ピウス3世、シクストゥス4世の甥のユリウス2世と教皇の甥が3代続けて 教皇になっていることも親族登用を象徴していると言えます。 ●コンクラーヴェでの賄賂● この時期は、コンクラーヴェ(教皇選挙会議)での賄賂が横行し、 アレクサンデル6世、ユリウス2世は、気前良く賄賂を贈り、聖職を約束し、 教皇の座に就いています。特にユリウス2世は、これまでの最短時間で 教皇に選出されています。あと、賄賂ではありませんが、レオ10世は、重病の ふりをして、自分に票を集めるように仕向けています。 ●贖宥状● 免罪符とも言われ、お金を払って買えば、全ての罪は赦されると言って販売 したものですが、シクストゥス4世から贖宥状を売り始め、レオ10世の時に 新サンピエトロ大聖堂の建設の資金のために大量に販売されています。 これが、プロテスタント側からの批判の対象にされます。 ●宗教改革・教会への批判● 最初は、ジロラモ・サヴォナローラからのものでした。「虚栄の焼却」という 奢侈品や世俗的な芸術品を「罪の源」として燃やすことを行ったり、 教皇アレクサンデル6世の腐敗(ネポティズム、贅沢、性的スキャンダル)や 宗教画に世俗的な主題や官能性を持ち込んだことを批判し攻撃しました。 アレクサンデル6世は最初は黙認しましたが、1497年にサヴォナローラを 破門しました。それでも、サヴォナローラは説教を続け、教皇の退位を要求する など反抗するも、結局フィレンツェ市民の支持が離れ、1498年に処刑されました。 これが、宗教改革の先駆けと言えるものかもしれません。そしてレオ10世の 時には、贖宥状の販売のこともあり、マルティン・ルターから批判され、 95ヶ条の意見書を突き付けられます。 レオ10世は、ルターも破門にしますが、これが宗教改革となり、 プロテスタントが生まれることになります。ですが、カトリック側も このままではいけないということでパウルス3世が、トレント公会議を開催し、 カトリックの改革へと動き出します。 ●ローマ略奪(サッコ・ディ・ローマ)● メディチ家出身の教皇クレメンス7世は、1526年にフランス王フランソワ1世 とコニャック同盟を結び、神聖ローマ皇帝カール5世のイタリア支配に対抗 します。 これにカール5世が激怒し、1527年5月6日にスペイン人カトリック教徒と ルター派のドイツ人からなる軍隊でローマを襲撃、5ヶ月にわたってローマを 蹂躙し、貴重品は略奪され、市民は虐殺され(推定死者12000人以上)、 修道女は強姦されました。 クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込み、1ヶ月間籠城しますが 降伏し、カール5世に巨額の賠償金と領土を譲渡。教皇権の独立性が失われ、 カール5世の影響下になりました。 そして多くの芸術家・人文主義者がローマから離散しローマの文化・経済が 大打撃を受け、ルネサンスの中心がフィレンツェやヴェネツィアに移行し、 ローマやヴァチカンから多くの美術品が失われましたが、逆にヨーロッパ 全土にルネサンス芸術が拡散するきっかけにもなりました。 この出来事は、ルネサンスの華やかさがもたらした政治的リスクを象徴します。 この惨劇が、後のパウルス3世によるトレント公会議でのカトリック改革を 加速させました。 ●総括● このようにルネサンス時代の教皇は、まさに腐敗と堕落を招いてしまったの ですが、また芸術家のパトロンとしてルネサンスの芸術や文化をを発展させる ことに大きく貢献したという面もあり、良くもあり、悪くもありの時代ですが、 また、強烈な個性を持った教皇がたくさん登場した時代でもあったと思います。 ルネサンスの芸術を発展させたという良い面がありますが、あまりにも 世俗化してしまったという点で、まさに反面教師とする時代なのではない でしょうか。そんな気がします。 また、パウルス3世が始めた改革によって、カトリック教会が再び立ち直った ことは本当に素晴らしいことだと思います。 |
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| write:2026/02/28 | rewrite:- | update:2026/03/01 |