15.教皇グレゴリウス1世
今日は、教皇グレゴリウス1世の祝日です。グレゴリウス1世は
自分のコスプレネームに由来する人物でもありますので、
今回は教皇グレゴリウス1世についてまとめてみました。


●教皇グレゴリウス1世●
生没年 540年頃~604年3月12日
在位  590年9月3日~604年3月12日
祝日  9月3日

「大教皇」と呼ばれた2人の教皇のうちの1人(もう1人はレオ1世)。
ローマ貴族の家系に生まれ、父は元老院議員。573年にローマ市長官と
なったが、父の死後、ローマにあった屋敷を修道院に変え、相続した財産で
ほかに6ヶ所の修道院を創設。574年には自身もベネディクト会の修道士として
祈りの日々を過ごした。579年にはペラギウス2世によって教皇大使として
コンスタンティノープルに派遣された。590年に満場一致で教皇に選ばれた。
教皇の重責よりも瞑想生活を望んでいたグレゴリウスは教皇位を他の適任者に
譲ろうと山奥にかくれたが、数日後に見つけられるなど、数ヶ月間固辞
し続けるが、9月3日に教皇として聖別される。

教皇になってからはその職務を精力的にこなすようになった。
ローマの飢饉を解決することに着手し、救援物資を調達する過程において
広大な地域に散らばった教皇領の管理体制を改めて組織し直し
確実に教皇庁に金が入るようにし、その利益で飢えた人々、病める人々、
貧しい人に救いの手を差し延べた。また、ランゴバルド族が北から
侵入してきた時、自ら防衛に乗り出し、傭兵を雇い敵の進撃を防いだが、
591年と593年にはランゴバルド族に多額の金を払って講和を結び、
略奪行為をやめさせた。

世俗的な面だけでなく、教会にも数々の改革をもたらし、宗教活動の指導書
「司牧規定書」を著し、司教の選挙法と正しい行いに関する規則を定め、
求められる高い倫理基準を守れなかった聖職者には位階を剥奪した。
また、各地に宣教師を派遣し、布教を務めた。特に596年にベネディクト会の
カンタベリの聖アウグスティヌス以下40名の宣教師をイギリスに派遣した。
初期の教会の伝記である「対話集」、福音書についての説教集、
850通を超える手紙、旧約聖書「ヨブ記」の解説書など膨大な著作を残した。
また、代表的教会音楽である「グレゴリオ聖歌」の創始者でもあり、
グレゴリオ礼典の制定にも貢献した。

604年3月12日に死去。間もなく市民の強い要望によって列聖された。
「教会博士」の栄誉を与えられその墓碑には「神の執政官」と
刻まれているが、グレゴリウス自身が使ったのはもっと謙虚な肩書き
「神の僕たちの僕」だった。


●参考文献●
「ローマ教皇事典」 三交社
「ローマ教皇歴代誌」 創元社
「聖人たちの生涯」 中央出版社
write:2012/09/03 rewrite:- update:2019/05/06


Back

Archive