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13.船頭多くして船山に上ってしまった四帝共治制 | ||
今回は、歴史ネタです。3世紀の終わりからローマ帝国で採用された 四帝共治制について書こうと思います。 ローマ帝国もアレクサンデル・セウェルス帝が殺されてからの235~285年の間、 ローマ皇帝は軍人の中から選ばれるようになり、その統治期間も5年続けば 良い方というくらい短い治世の人が多く、皇帝たちの多くが非業の死、特に 自分の軍隊によって殺されることが多かったというローマ帝国史上最低最悪の 時代でした。そしてそれに終止符を打ち、帝国の政治を大幅に改革したのが、 284年に即位したディオクレティアヌス帝でした。そして、その改革の中で ひときわ大きな改革だったのが「四帝共治制」です。 235~285年の軍人皇帝時代は、帝国のシステムに欠陥があることをはっきりと 示していましたが、それを埋める方法をディオクレティアヌス帝は次々と 考えだし、その一つが「四帝共治制」でした。これは、4人の共治帝の間で 権力を分割し、4人それぞれが異なる国境を防衛し、反乱や帝位僭称者の 出現を防ぐ方法としてとても効率的な方法でした。これが有効だったことは、 ディオクレティアヌス帝が20年以上も国を治め、退位して隠居生活に入る ことができたことからも証明されています。 ところが、ディオクレティアヌス帝が退位してからは、他の3人を統率する 人がいなくなり、内乱状態になります。そして、その内乱を終息させ、 単独統治をおこなったのが、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝です。 そして、コンスタンティヌス帝の死後、息子3人で帝国を分け合いますが、 再び内乱になります。そして、395年には、帝国は東西に分裂し、 東は、ビザンツ帝国として形を変え、その後1000年間続きますが、 西は、それから80年後に滅びてしまいます。 ディオクレティアヌス帝の退位後、コンスタンティヌス帝の死後の内乱に ついては、結局は最高権力者が複数いることでまとまりがなくなり、 内乱になってしまったと言えます。「船頭多くして船山に上る」という ことわざがありますが、まさにそれを体現したのが、四帝共治制による 内乱だったかと思います。最初は、ディオクレティアヌス帝という他の3人 を統率する1人のリーダーがいたからこそ上手くいっていたのであって、 そんなリーダーがいなくなれば四帝共治制は、たちまち上手くいかなくなって しまった。そんな所だと思います。 ここから言えることは、「船頭多くして船山に上る」ということが 起こるので、最高権力者は複数いてはいけないということだと思います。 そのような内乱は日本の南北朝時代や、ローマ教皇史の14世紀末から 15世紀初めの大分裂時代もそれを如実に語っていると思います。 ま、何事も最高権力は1つにしましょうということで。 |
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write:2019/08/29 | rewrite:- | update:2019/11/02 |