9.日野富子について
今回は、歴史上の人物「日野富子」について書こうと思います。

日野富子といえば、応仁の乱の原因を作ったとか、金の亡者だったとか、
悪女の評判が尽きませんが、最近(と言っても10年以上前)の研究では
富子が応仁の乱を終結させたとも言われており、2003年9月17日に放送された
「その時歴史が動いた 日野富子 愛と憎しみの和平工作 ~応仁の乱を
終結させた将軍の妻~」でそのことが解説されていました。

応仁の乱が起こったきっかけは、足利義政が29歳にして隠居を考え始めた
ことでした。富子に無断で弟の義尋を還俗させ、義視と改めさせて自分の
後継者とするも、この3日後に富子が長男・義尚を出産します。

義政は有力守護大名の細川勝元を弟・義視の後見人とし、これに対して
自分の子・義尚の将来を案じた富子は、大大名である山名宗全に接近します。
これが後に全国を二分する争いになり、1467年にとうとう応仁の乱が勃発します。

義政は細川勝元の東軍の大将に義視を任命するが、西軍の優位をみた義視が
義政を裏切り西軍に寝返り、これに激怒した義政が義尚を後継者に任命、
東西両軍のトップがそっくり入れ替わるという混迷状態に陥ります。

乱の長期化で大名は疲弊し、厭戦気分が出ていましたが、各大名はしがらみで
退くことが出来ない状態でした。西軍の有力武将の一人、畠山義就は
領国に帰ろうにも領国には兄が居座っており、兄と戦う軍資金のない義就は
退こうにも退けない状態にありました。そこで富子は、敵方の武将である
義就に金を貸し付けるという形で軍資金を提供しました。

西軍最後の有力武将である大内政弘は、この乱で領国を失った上に官位も
剥奪されており、大内氏としても退くに退けない状態でした。
これを見た富子は大内政弘のメンツを立てるために、後土御門天皇に
大内の降伏を条件に官位を与えるように要請する。これに難色を示す
天皇に対し、富子は義政も連れて度々の働きかけを行い、これを実現させます。
こうしてかつての所領と官位を再び与えられた大内政弘は国元へ帰還します。
これでついに応仁の乱は終息します。

こうして見ていると、夫の義政が無能であったばかりにこのように
政治の表に出ないといけないことになりましたが、確かに、我が子に
将軍職を継がせたいという富子の思いが応仁の乱の原因ともなりましたが、
こうして女性ならではの方法で応仁の乱を終息させたのも富子であり、
それを考えると富子は本当に政治手腕のあった人だったのだなと思います。

富子の迷惑とも言える蓄財についてですが、最初は息子義尚のためだったかと
思いますが、義尚の死後は息子の死の悲しみを忘れるために蓄財に溺れて
いってしまったように思えます。それでも当時の人々は祭りもできなくなるなど
迷惑この上なかったのですけどね。

息子義尚の死後は義視の子義材(義稙)が将軍になりますが、それでも富子は
没落せず、義材の母は富子の妹で富子にとっては甥ということで、乱の前に
富子は妹を義材に嫁がせ、保険を掛けていたことになります。
これについては、富子恐るべし、日野家恐るべしです。富子は男性に
生まれていたら大物の政治家になれていたかもしれないですね。

この時代と言えば、「日本国王」源道義(足利義満)、天魔王(足利義教)、
押大臣(おしのおとど)(日野勝光)、御方公方(日野富子)、
半将軍(細川政元)、流れ公方(足利義稙)と個性的な人々が登場しますが、
今後の研究も悪い部分だけでなく、良い部分にもスポットライトを当てて
頂きたいと思います。それが歴史の真実に近づくのではないかと思います。


参考文献
・サイト「教養ドキュメントファンクラブ」
http://homepage1.nifty.com/sagi/index.html
の「その時歴史が動いた」のページ
http://homepage1.nifty.com/sagi/sonotoki.html
・小学館 井沢元彦「逆説の日本史8 中世混沌編 室町文化と一揆の謎」
write:2014/05/05 rewrite:2014/06/16 update:2014/06/16


Back

Archive