9.ローマ皇帝
今回は、ローマ皇帝について2つのことを書こうと思います。

1つ目は、「ローマ皇帝がいつ誕生したのかは厳密には決められない」
ということです。世界史の授業などでは、B.C.27年にオクタヴィアヌスが
「アウグストゥス」の称号を得た時がそうだと教えられるのでしょうが、
それはあくまで便宜上のことだと思います。

あの当時のローマと言えば、大土地所有者がいる一方で無産市民がいるという
格差社会になっていました。それを変えようとしたのがグラックス兄弟であり、
それに続くユリウス・カエサルでしたが、2人とも殺されるという結末で
失敗してしまいました。その後に続くオクタヴィアヌスは、これらの失敗
からも学んだと思います。そこで、オクタヴィアヌスは、共和制が
続いているように見せかけながら、帝政へと政治の仕組みを作り変えること、
たった一人のリーダーが効率的に国を治めるシステムを作ることを画策
しました。

そこで最初にしたことは、それ一つだけではそれほど大したことのない肩書や
権利を少しずつ集めていきました。主なものとしては、

・プリンケプス(市民の第一人者)
・インペラトル(大将軍、最高司令官)

そうした上で、B.C.23年に執政官の職を辞し、その代わりに属州の治安維持の
ために全軍隊の最高司令権と護民官の特権を拒否権付きで得ることができ、
B.C.19年には、独裁官(ディクタトル)、次いで終身執政官になることが
求められたが、その申し出を拒み、執政官の地位ではなくその権限のみを
受けました。こうしてオクタヴィアヌスことアウグストゥス帝は、
皇帝という地位を徐々に権限を獲得することで確立していきました。
これも人々に食と安全を保障する世界国家の建設と
パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現するためでした。

このように徐々に皇帝としての権限を獲得していったのでいつがローマ皇帝
誕生の日なのかは厳密に決められないと思います。また、。こうした徐々に
権限を獲得したり、徐々に行動をするのは改革や変わったことを行う時には
効果的なように思えます。日本の例では、鎌倉幕府の成立が挙げられると
思います。

2つ目は、「ローマ皇帝は、それほどの権力を持っていない」ということです。
「ローマ皇帝」と言われると絶対的な権力を持っているように感じられますが、
中世以降の皇帝だったり、絶対王政の頃の国王のような絶対的な権力は
持っていなかったというのが現実だったように思えます。ローマ皇帝ですが、
実にその3分の2が殺されているか、変な死に方をしています。
その事実だけをを見てもローマ皇帝は、それほどの権力を持っていないと
いうことが分かります。ローマ皇帝という地位ですが、元老院、市民、軍隊
から政治の実権を委任している存在であり、その人物が皇帝にふさわしくない
と思われると、その地位を引きずり降ろされ、殺されていくということに
なります。いうなれば議会の議長みたいな存在でしたかね。そんな気がします。
そして、常にローマ皇帝はその職務にふさわしい人物であるかを常に
見られている存在だといえます。

ローマ皇帝は、賢帝、愚帝含めて個性的な人物が数多く登場しました。
賢帝だと、アウグストゥス帝、ティトゥス帝、トラヤヌス帝、
ハドリアヌス帝、アントニヌス・ピウス帝、マルクス・アウグストゥルス帝、
ディオクレティアヌス帝。愚帝だとカリグラ帝、ネロ帝、コンモドゥス帝
あたりですかね。そんな人たちが皇帝になりましたが、「ローマ皇帝」と
いう地位は、アウグストゥス帝がこう呼ばれることを望んだ
プリンケプス(市民の第一人者)という呼び名が一番ふさわしいのではないか、
そんな気がします。
write:2015/09/13 rewrite:- update:2015/09/13


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